うつで休職した話

体調と治療の記録

こみ上げる怒りも、「すべき思考」の表れ

結婚してから、旦那との喧嘩が増えた。私がこんなに喧嘩してるなんて、思春期以来じゃないかと思うくらいだ。

何でも伝え合える方がいいと思って、旦那にこうして欲しいと伝える。例えば、洗濯物の干し方。「こうした方が早く乾くから、次からこうして〜」。

すると、旦那は旦那なりの考えがあってやっているのに注意されるもんだから、面白くない。むしろ、「俺はちゃんと洗濯物を干しているんだぞ、家事参加しているんだぞ、褒めてくれてもいいだろう」と思っていたんだろう。そして、言い返す。「細かいところまで管理せんといてよ。もう俺には分からんわ。なら自分でやってよ」

私はムッとなり、「これから上手に家事ができた方がいいでしょ。感情的にならないでよ!」と反論する。

 

バーンズ先生の本を読んで気づいたのだが、私たちの喧嘩は、自分の正しさを証明するための、”自尊心を守る戦い”だった。

相手が自分を批判したり、好まなかったり、考えに賛成しなかったりした時に生じる怒り。でも、どれだけ声高に相手の行動をあげつらい、自分の正しさ叫ぼうが、相手の人格を否定できる訳ではない。この世で自尊心を脅かす人はたった一人。自分自身なのだから。

 

そもそも、怒りの背景には、「すべき思考」がある。

「すべき思考」は、自分がいつでも満足できるという仮定に基づいている。他人を含む周りの環境は、自分を満足させるべきだと、無意識のうちに思っている。そして、自分が望むものを手に入れられない時、自分の気に入らない時に怒りが生じる。

だが、人は自由な意思を持っている。自分が気に入らないような考えや行動をとる。人を自分の希望に従わせようと思っても思うようにならない。自分が不正に扱われたという認識から、怒りが生じる。

怒りが生じた時には、以下の疑問を投げかけ、考えるといいらしい。

この怒りは、悪意を持って何かをした人間に向けられているか?

この怒りは有用か?自分の目的の役に立つのか、単に有害なのか?

 

こう考えると、私の怒りは不要なものだった。

「私のやり方が正しいんだから、旦那も受け入れてくれるべき」というすべき思考から生まれた怒り。それをぶつけた結果、旦那とはいつも言い争って、問題がスムーズに解決した覚えはない。

 

以前、糸井重里さんが、思ったことを何でも言い合える環境を良しとする文化に一石を投じていた。言いたい事を言い合って、いい結果で終わったことがどのくらいあるだろう?相手への配慮もよろしくね、と。怒りに駆られては、配慮どころでは無い。

また、相手の行動を変えたいのなら、悪いところを突くのではなくて、自分の希望にかなった動きをしてくれた時に褒める方が効果的だろう。

 

先日も、義母から「早く復帰してたくさん稼いでね〜!せっかく金融は給料良いんだから、絶対しがみついていきなさいね。」と言われた時にも、怒りのような葛藤のような感情が出てきた。義母と私の価値観は別物だからと気にしないようにしても、もやもやしてしまう。

これも、「職場環境が合わずに鬱で体調を崩しているのだから、周りの人は早く復帰して頑張ってまた稼いでとは言うべきではない。」という「すべき思考」があったからだ。

 

「であるべき」というルールを持っていると、失望や葛藤の原因となる。「であるべき」を「であれば素晴らしい」に置き換えることが現実的で有用な第一歩だ。

怒りを頻繁に引き起こす考え方は歪んでいる。その歪みを直せば怒りの回数は減る。

もちろん相手にも「すべき思考」があって言い争いになるんだろうけど、相手の思考を変えることはできない。

ごきげんに生きるためにも、自分の思考の歪みを修正していこう。

 

 

*これは、バーンズ先生の本の内容を私なりに解釈したものです。